ソフトウェアエンジニア@横浜の徒然日記

SDGs,人と組織,ソフトウェア開発について知ったことを徒然なるままに発信

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言葉が自由をもたらす 〜一九八四年〜

ディストピアの題材として

引用されることが多い

ジョージ・オーウェルの一九八四年。

モデルとなったのはスターリン支配下

のソ連とあとがきに書かれていた。

すべての記録が同じ作り話を

記すことになれば、その嘘は

歴史へと移行し、真実に

なってしまう。

・・・現在真実であるものは

永遠の昔から永遠に真実である。

たしかに記録、人の記憶からに

残っているものが真実だとすれば

そのようになる。

故に権力の正当性を裏付けるために

不都合な過去は消去する必要がある。

問題は人の記憶はそう都合よく

操作できないが

必要なのは自分の記憶を

打ち負かし、その勝利を

際限なく続けることだけ。

この二重思考がそれを可能にする。

恐ろしいがイマイチよくわからない。

しかしその後に出てくる 

ニュースピークの目的は

挙げて思考の範囲を狭めることに

あるんだ。最終的には思考犯罪が

文字通り不可能になるはずだ。

何しろ思考を表現することばが

なくなるわけだから・・・

この発想には驚いた。

確かに発表されている真実を

疑う言葉自体を持たなければ

そもそも疑うという

行為自体が発生しない。

そうなれば真実は永遠に真実となる。

自由とはニ足すニが四であると

言える自由である。その自由が

認められるならば、他の自由は

すべて後からついてくる。

この行為もニたすニは五である

と言われている真実を疑わなければ

出てこない思考だ。

主人公はそれに抗おうとするも

ヒロインの

かれらだって人の心にまで

入り込めはしない

という言葉は支配者である党によって

否定される形で物語は幕を閉じる。

党は人の心に入り込むことも

可能だと証明される形で。

 

いづれにせよ言葉に制約を課すことは

思考に制約を課すこと。

故に人に自由をもたらすものは

多くの言葉を持っていることなのか?

と感じた。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

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